川本 和久(KAWAMOTO,Kazuhisa)

 1957年 佐賀県伊万里市生まれ
      
伊万里市立山代西小学校、山代中学校を優秀な成績!?で卒業。
      野球に明け暮れる毎日でした。
      なにせ「和久」は、西鉄ライオンズの「鉄腕、稲尾和久」から
      父親(川本明)が勝手に頂いたものです。
      野球少年は、当然でしょう。
      佐賀県立伊万里高等学校も優秀な成績!?で卒業

伊万里津大橋と古伊万里の壺

伊万里名物「トンテントン

高校時代は、陸上の練習と法学部を目指して勉強。
3年夏のインターハイで、まさかの準決勝落ち。国体に賭ける。
が、県の国体予選で、まさかの(続くね)2着。
その時の記録は良かったんだよ。(高校ランキング7位、でも1着は、ランキング2位)
で、夢を諦めきれずに「めいっぱい陸上競技がやれるところ」で、筑波大学へ進学

1976年 筑波大学体育専門学群

1980年 筑波大学大学院体育研究科コーチ学専攻

1982年 茨城県藤代南中学校講師

1983年 茨城県利根町立文(ふみ)小学校講師
  
中学校、小学校の講師をしていた頃は、就職口がなくて、
  数え切れないほどの履歴書を書きました。
  その時は、結構辛いものがありましたが、今ではいい思い出です。
  大学関係を諦めて、一般企業への就職をと思い、
  大学の恩師に「就職の相談に行きます。」の電話を入れたら、
  「福島大学に出してみろ」と言われ、トントン拍子に話が決まり、大学の先生に。
  人生どうなるかわかりませんね。追っても追っても手が届かなかったものが、
  去ろうとすると向こうからやって来る。おもしろいものです。
  きっと大学で陸上競技を教えるために小学校、中学校の生徒をしっかり見て、
  コーチングに大切なものは、何か、を勉強しろということだったんですね。

1984年 福島大学教育学部助手
 
26歳の年でした。
 奥さんに「30までコーチをやらしてくれ。5年で東北で総合優勝できなかったらコーチをやめる。」
 と宣言して、3年目に総合優勝。優勝を決めたのは、最後のマイルリレー。一生忘れない思い出です。
 でも情熱だけで何もできない(本人はできているつもりでした)ただの応援団コーチでした。
 (注:応援団コーチ;がんばれ、ファイト、いけ〜が主なコーチ)
 穐本哲哉が沖縄国体で優勝したのが、コーチ4年目。
 100mの松野知子も育ってきて、なんとかこの道で生きて行けそうな勇気が湧いてきました。

1986年 福島大学教育学部講師
 
1987年は、30歳。30代の誓いは、「インカレで女子4×100R、男子4×400Rで入賞。
 日本記録を出す。オリンピック選手を育てる。」でした。これができなければ、コーチを辞める。

1991年 福島大学教育学部助教授

1991年 文部省在外研究員(カナダ・ヨーク大学、アメリカ・ヒューストン大学)
      ヨーク大学には、ベン・ジョンソンが、
      ヒューストン大学にはカール・ルイスとリロイ・バレルが・・・・
      私の生き方を変えた1年間でした。感謝。
 カール・ルイスのコーチ、トム・テレツの「100mは、100mだ」の言葉で、言い訳しない人生に気づかされ、一度に目の前の霧が晴れました。
そう言えば、学生時代に同じようなことがありました。
3年生になるころ、朝練習中に突然、「あっこれだ。」と走り方がわかったような気がしました。その時も目の前の霧が晴れたような感じでした。
留学が終わってからやっと藤城南中、文小学校の先生時代に得たもの(智恵)に気づいて、選手育成に使えるようになりました。
ちょっと長い道のりでしたが、ここから急に選手達が育ち始めました。


リレーの入賞(1996)、日本記録(1995雉子波秀子200m)と簡単に目標が突破できました。
でもオリンピック選手は・・・・・・
増子大祐が4年生の時(1996)、アトランタオリンピック最終予選の日本選手権100m決勝。
増子は、残念にも隣のレーンを走った朝原君に置いて行かれ、オリンピックは夢と消えました。
40歳を目前にオリンピックは、長野冬期五輪だけ。
奥さんに「オリンピックの代わりに世界選手権」とお願いして、アテネ世界選手権(1997)の代表を狙いました。
コーチとして最後のシーズンになるかも知れない。と背水の陣で臨んだ冬期練習は、そりゃあ必死でした(毎年、必死じゃないのか?という疑問もありますが、まあここは、話の流れで)。
雉子波秀子・増子大祐が代表に決まったときは、ちょっぴり涙が溢れました。

2000年
 
池田・茂木・廣田・二瓶のオーダーで日本インカレ4×100mR優勝(45秒31日本学生新)。
その後、2007年まで8連勝。マイルリレーは2002年から2008年まで日本インカレ7連勝。

2001年
北上の陸上競技場で二瓶秀子が100mの日本記録11秒36を樹立。
留学から10年が経っていました。
この日本記録樹立で、川本なりのスプリント論が確立しました。
その後は、しばらく400を中心としたエネルギー系の勉強に。

2003年 福島大学教育学部教授
 グランドが6レーンの全天候型に改修されました。前任者の青田峯雄先生からこのチームを託されて、20年目のシーズンです。グランドの全天候化は、青田先生の念願でした。その青田先生は、グランド完成間近の4月にご逝去されました。グランドが完成したら、2人でゆっくりグランドを歩きながら(青田先生は、さっ、さっ、さっと颯爽と歩かれますが・・・)、この20年間を語り合おうと思っていた矢先でした。川本のスポーツの考え方を大きく変えていただいた大先生です。こんな気持ちで、選手育成ができるのも、そして、こうやって曲がりなりにも成功しているのは、青田先生の「川本君・・・・」で始まる話がたくさんあったからです。「川本の師匠は誰ですか?」と問われたら、即座に「青田先生」です。本当に素晴らしい教えを頂きました。青田先生にお会いしていなかったら、きっと今の川本はいません。何も気づかずにお釈迦様の手のひらを飛び回る孫悟空のように、そこいらへんをグルグル回るだけだったと思います。
 完工式の日は、先生のご遺影を眺めながら悲しいような、うれしいような複雑な気持ちで、涙が止まりませんでした。ご冥福をお祈り致します。
 この年の4月に福島県立医科大学医学研究科に入学しました。50代以降どうやって生きていこうと考え、このまま今の知識を切り売りして、後20年、定年までそれでいいのか?という思いが日に日に強くなり、2月の大学院追加募集に受験しました。この4月から息子も大学生になり、学費なども大変ですが、50代の自分のためにちょっと充電しようと考えました。

2006年 日本選手権リレー
 4×100R単独チームで44秒台が目標でした。44秒80の日本学生新。

2007年 日本インカレ
 気がつけば、日本インカレで総合優勝をしていました(ついでに2008年も)。

2008年 北京オリンピック
 いつかは、オリンピック選手を!の夢が結実。50歳の夏でした。
丹野麻美が400mで北京のスタートラインに。久保倉里美が400mハードルで準決勝まで進み世界のベスト16に。そして、久保倉、丹野、木田真有、青木沙弥佳とバトンをつないだ4×400mR。
自分の教え子だけでリレーチームを組んでオリンピックに出られるとは・・・・
感無量でした。でも、世界は遠い!

2009年 福島県立医科大学大学院博士課程修了
 結局6年かかりました。スポーツ遺伝子の研究ができました。医大で勉強した6年間は、決して無駄ではなかったと思います。これで、50代の教授として教える幅ができました。研究と人脈を活かして世界に臨みます。

●活動フィールド:福島大学陸上競技部監督

         福島大学トラッククラブ監督

         東邦銀行陸上競技部監督

         福島陸上競技協会強化副部長  福島陸上競技協会普及部部長

         日本スプリント学会副会長

         日本陸上競技連盟普及育成委員会育成副部長